宮城県 七ヶ浜へ2011/07/04 22:45

一昨日、七ヶ浜から帰ってきました
4泊5日ですが、最初と最後は移動日
ボランティアでの活動は3日間でした

  ※ 七ヶ浜の被害状況の写真は、すでに多く存在し
    ニュース、インターネット上でも公開されています。
    今、被害状況の写真を撮る行為は、心に傷を持った
    被害者の方々に辛いこととなります
    今回は、文章が長くなりました

七ヶ浜では今回の大震災で70数名の方が亡くなられたり、行方不明であったりしています
震度は5強で、地震で倒された家は見ませんでしたが、
津波で浜に面した家々は押し流され、高台で助かった家々とのコントラストが、なんともいえない、やりきれなさを感ぜずにはいられない状況でした
どこにでもある、普通の生活が3月11日、思い出の品々とともに一瞬に流されてしまったのです

私が行った時は、約3か月半がたち、避難所で生活する方はいなく、仮設住宅へすべて入られたとのことでした。復旧から復興への足がかりを何とかつかもうと努力している過程のようでしたが、道のりは遠く思えました

 
宿泊場所のきずな館・2階の30畳ずつの部屋に男女別れて寝ます
持参した寝袋に入っての雑魚寝です

6月28日 
午前8時 名古屋久屋大通り RSY(レスキューストックヤード・名古屋のNPO)集合
ミーティング後 マイクロバスで現地に向かう
午後9時過ぎ 現地到着 ミーティングの後、就寝

ボランティアセンターでのミーティング・マッチング前の風景
その日のニーズが示されているホワイトボード

6月29日
ボランティアセンターに行き受付後マッチングで
当日の行動を決めます
 ※マッチングとはボランティアセンターが主催し、その日毎の
   個人からのニーズや
   全体としての復旧活動、支援活動を、ボランティア参加者の希望も含め
   個人の活動場所を決めていく作業で、毎日行われます
今日は、菖蒲田浜の清掃活動となりました
浜には大型のコンテナなどが放置されたままです
大きなものは、後日、行政が重機を使い除いて行くこととなりますが
私たちは人力で可能な、大きながれきから小さな漂流物など運び出します
作業は午前2~3時間、午後2~3時間で、短いようにも思われますが
一度に負荷をかけ、頑張ることより、多くの方々が安全に、継続できる配慮からだと思います
100人を超える、ボランティアの方々の作業でしたが
菖蒲田浜の海水浴場は海岸線も長く(7~800m)、実際終わったのは1/20程度でしょうか。先の長い活動に思えました

6月30日
今日は、最初からRSYが主導する、国際村の仮設住宅の集会所を利用したカフェの運営でした
カフェのオープン時間は、10時~12時、13時30分~15時30分
目的は、
仮設住宅に住まわれる方々の孤立化を防ぐ。被災者が、交流の中から次への一歩を歩みだす
ということでしょうか
会場に着くと、地元の方々のボランティアが5名やって来ました
「あねっこダーズ」というグループの方々で、平均年齢は70歳代でしょうか
地元では有名な、とても元気な女性の方々でした
私にとっては、この方々も、ここの利用者と同じ地元の方々
お話をし、心かよわす事ができればと思いました
すぐに、意気投合
楽しいお話に続いて、本当の七ヶ浜を色々伺う事ができました
すると、歌を一緒に歌おうという事となり
ボランティア、利用者、たまたま来ていた千葉県の保健士の総勢14名で
 好きになった人
 ボケない音頭
の2曲を、私の指揮にあわせ、全員で楽しく歌いました
そんな後、地元ボランティアのKさんが、「見つかったんですよ」と、本当に嬉しそうに、私に紙袋の中を見せてくれました
中は、泥で汚れたお勤め(お経)のとき使う道具の入った袋でした
「よかったね」と言いつつも、この後、津軽三味線のイベント準備で、それ以上は話せませんでした
津軽三味線は佐藤さんというプロの演奏でした
スタッフも入れて20名程度の観客。心に響く三味線と佐藤さんの語りでした
40分ほどでしたでしょうか。演奏会が終わった後、Kさんのことが、どうしても気になりました。私に、本当に嬉しそうに見せてくれた。きっと、話したいことも・・・
と思い、もう一度、見せてもらい、お話を聞きました
・花渕浜(七ヶ浜で一番ひどく津波でやられた地域)に住んでいたこと
・自宅は、家が2階部分の形を残したまま丸ごと、国道の向こうまで流されてしまったこと
・16軒ある住民は、当初、全員お寺に避難していたが、そこも危ない
  との情報で、助け合いお墓まで何とか逃げ、全員無事だったこと
 (お寺も流された)
・村の方々は無事でも、同級の4名、親戚の6名が亡くなったこと
・流されたご主人の遺影が、一旦は見つかったと聞いたがその後不明で
 今は捜し歩いているとのこと
直接聞くお話は、私の心に響きつづけました
昼過ぎ、お別れするとき、笑顔を見せてくれました
忘れられません

7月1日
今日は、ボランティアセンターでのマッチングで
個人宅での清掃作業となりました
清掃作業といっても、基礎しか残っていないお宅での
ガラスの破片とか、コンクリート片、タイル、等、人工物を取り除く作業です
持主は、散乱した自宅を見るのは辛く、きれいにしたいというものでした
総勢50名で始め、昼からは応援も含め80名ほどとなりました
一瞬にして総てをさらわれた方々の心情は、一つ一つの作業の中、重く感じていきます
そして、14時半頃、作業は完了し、片隅を耕し「ひまわりの種」を全員で植えました
 ※この「ひまわりの種」は、阪神 淡路大震災で亡くなった、
   加藤はるかちゃんにまつわるものです。
   はるかちゃんは、当時、神戸の本山第二小学校の6年生でした。
   飼っていたハムスターと隣の仲良しのオウムの餌に
   「ひまわりの種」を与えていました。
   その種が、亡くなった跡地に、はるかちゃんの生まれ変わりのように
   咲きました。
   その後、その種は「はるかのひまわり」として各地に広がりました

7月1日 夜
夕食のとき、七ヶ浜のkちゃん(60歳の女性)が、漬物を持ってやってきました
娘さん、お孫さんといっしょで、ボランティアの方々への感謝の気持ちからでしょう
明るく、楽しく、軽口も・・・
なぜか、ひかれるものもあり親しく楽しいひと時となりました
そんなkちゃんからメールが来ていました
 
「七ヶ浜は、コンパクトな町なだけに、ボランティアの皆様のお陰で他地域よりも、数段復興に向けて進んでおります。

私のように、太平楽なように見えるようであっても、心に大きな痛みを抱えて生活しています。
面には出さないだけなのです。
自分の心を、自分で持ち上げるのが、精一杯な人がかなり多いのも事実です。
 なので、私は、皆さんの笑顔に会いたくて、震災後からボランティアをさせて頂いております。」


そして、その後、次のようなメールもいただきました

「震災当初は、誰がみても『唖然・ 茫然』の光景でした。
悲しいとの感情は、涌きませんでした。
悲しくなったのは、ボランティア始めてからです。
私は、直接津波を見ないで済みましたので、地震の恐怖感が大きかっと思います。
当日は、我が家にも家を流された友人、次の日は、娘が、家に帰れない同僚など。水無し電気無し、電話なし、食べ物なし、ガソリン無しの無い無いずくしでしたが、我が家で生活出来る人は、それでも極楽生活です。べッドに寝られるだけでも幸せです。
我が家の家族が揃ったのは次の日でした。

100メートル先の避難所は、物凄い光景でした。食べ物も無く、寒さに震えて、体育館の床に毛布一枚に、子供を抱え、お年寄りが横になっていました。あまりのショックにボランティアのユニフォームを着用し、一人で出動しました。リックにマスク、飴、チョコレートを詰め込んで、少量での水で出来る、感染症予防法を話しながら、傾聴ボランティアを始めました。
水は、一気に飲まず一口を口に含んで、うがいをしてから、吐き出さないでそのまま飲み込んでね~!必ずマスクをしてね~!と一石三鳥水分補給にもなるからね~!を繰り返してきました。
個人物資の服を避難所に運んでの帰り、車で一人毎日泣いていました。悲しさと自衛隊の方々の労苦に感謝の涙でした。」


私は、いかに考えが浅かったのかと思い知らされました
そして、単に三日間が作業だけで終わっていたら、上辺だけ、自己満足の世界で終わってしまったかもしれません
kちゃんにお会いできてよかったし
ほかの方々との出会い、お話を聞けてよかったと思っています
心をつないで深いものとする努力をしていきたいと思いました


7月2日
午前9時 七ヶ浜出発
午後7時 名古屋到着

ボランティア活動は、体力をトコトン使った、たとえば土方作業みたいなものをイメージしていました。
確かに、時期によりそんな作業が大半のときもあったでしょう
でも、そんな時でも、そのボランティアの方々の生活を支えるのも重要で、立派なボランティアです。今回も、一緒に行った女性たちが賄いを頑張ってくれたから、私たちも頑張れました。他でも、何かと私たちの活動を支えていただいたのもボランティアの方々です。
特殊な能力を持った方、体力を持った方だけがボランティアではありません
場合によっては、小学生だって十分役に立つボランティアとなりえます
愛知でも、街に立ち、募金を呼びかける方々がいて、その支援で私たちがボランティアに気楽に参加できることにもなります。その方々も、今回の震災ボランティアです
そして、ボランティアの作業内容は自分の満足度合いで決めるものでもありません。被災された方々のニーズ、立場に立った内容が求められます
被災された方々の、一人ひとり違う心に寄り添うことが大切と思いました
今までは、どちらかというと、ホランティアをしている方々は、少し特殊のように思ってしまっていた様な気がします
ボランティアが当たり前に生活の中に入っているような世界が広がると良いですね
一緒にボランティアに行ったGさんが言っていました
「帰ってから、今回の内容、状況を周りに話し伝えるのも立派なボランティアだ」・・・と
同感です


ボランティア費用
基本的にはすべて自費です
今回、基本部分は約1万5千円程度
(RSYには、旅費、2食付き(自炊)宿泊費として七千円支払)
必要な持ち物(寝袋など)がない場合、個人的に借りれればよいが
購入すると費用がかさみます

以上、七ヶ浜ボランティアの報告です

心残り
RSYの現地での責任者が「あい ちゃん」という1976年生まれ女性です
彼女の切り盛りが活動を支えているように思えました
3月からの現地での活動。まだ、来年の3月もこちらにいるだろうとの事
話し出したとき、いつも他のことで会話は途切れました
一般の女性たちとあまりにも違う生き方。生活
もっと、お話を聞き、交流してみたかったと思いました

ねむの木2011/07/10 22:43

寒狭川沿いの 「ねむの木」が花を咲かせています

一昨日の梅雨明け後
今日は、まさに ”夏!!” という天気でした

昨日今日と、源氏出身の女性9名の同級会
遠くは埼玉県から駆けつけた方も
楽しいひと時を過ごし、皆さんを送り出した後
さあ、片付けと掃除・・・
今日は、日陰でも、少し動いただけで、額から汗がこぼれ落ちてきます
一日で、何枚下着を変えたことか・・・

そんな時、源氏橋に出てみると
川岸に立つ、「ねむの木」の可憐な花が目に飛び込んできました
しばし、暑さを忘れ、寒狭川とのコラボレーションに見入ってしまいました

夏シーズンが始まりました
もっともっと、たくさんの笑顔とお会いしたいなと思う一日でした
 



やられました2011/07/15 09:38


一昨日、ブルーベリー畑に出てみると
ヒヨドリと出くわしました
ヒヨドリは北方向からブルーベリーの木に向かってきました
木に止ろうとしたとき目が合いました
尖った口ばし、大きな体
思わず、手を2回たたきました
ヒヨドリは、一目散に逃げて行きました
・・・
見つかってしまった

ヒヨドリは糖分を好むため、果樹を作る者にとって
嫌われ者です
今年は、今まで見つからずに
収穫ができ、楽しみだったのに・・・


あくる日、ブルーベリー畑に出てみると
熟した実や、色づいてきたものの、まだ熟していない(すっぱい)実も含め
すっかり無くなっていました
残っているのは色づいていない実ばかり

まだ、甘味よりも、すっぱいばかりの実でも
少し色づけば、ヒヨドリにとって御馳走のようです
これでは、競争になりません

実は、まだまだたくさん残っていますが
私の口に入るのはほとんど期待できなくなってしまいました

 

台風6号~2011/07/21 17:19

7月の台風には驚かされました
6号は、大型で強い台風として近付いてきました
このあたりでは、風は大したことはありませんでしたが
雨がけっこう降りました
新城市の作手地区では、避難勧告が出たところも

寒狭川も相当増水し、源氏橋には上流から流れてきた大きな木が
引っかかったままです
この辺りは大雨で増水すると、大きな石がゴロゴロ一緒に流れてきます
この木も、そのせいで木肌が剥けてしまったようです
無残な感じです(頭の部分は折れ、根っこの部分は残っていました)

寒狭川は一度増水すると、水遊びができる流れになるまで、2、3日かかります
今度の土曜に来られるお客さんが遊べるか心配です
 
紅岩付近
 

口いっぱい2011/07/25 06:31


昨日のお客様は
心温まる、U一族のみなさん

子どもたちは、はじめは親の陰に隠れモジモジしていたものの
じきに慣れ、母屋の中で運動会が始まりました
子供たちの、楽しく大はしゃぎする声は、ほんとうに良いものです

川遊びから始まった、夏の一大イベントは
夜のバーベキューで一区切り
あくる日は
ブルーベリー狩りから始まって
流しソーメンまで

子供たちにとっても、
これほどの、お父さん、お母さん
おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん・・・ が
2日間、みんな揃って、いっしょに楽しんでくれることは
そうは、無いでしょう
山のおやじも、楽しい2日間を過ごさせてもらいました

またいつか、この笑顔と会えると良いですね
“先生はお父さん”
自分もアユを食べると言い張った娘の先生はお父さん
後は、一人で頑張りました
 
自然の中で
 
とれるかな
 
力をこめて
 
ブルーベリー狩り
 
はいポーズ